第62回 欲求の本質に迫る~「老人ホームで参加者が多いイベントは」

 今回は、私もよく知る有料老人ホームについて書いてみます。
この老人ホームは入居者の平均年齢が90歳を越えており、毎年平均年齢が1歳ずつ上がっていくという優良老人ホームとなっています。

 ここの施設の特徴は、なんと言っても入居者が参加するイベントが多いことです。“毎日がイベント”というほど、楽しい施設となっています。春先のお花見は当然のこと、にぎり寿司をにぎる会、ヨモギ採りの会などの他、全国から集まるコスプレイベントでは桃太郎に出てくるキャラクターのコスプレで参加し、なんと優勝してしまうなど(翌年は準優勝)、スタッフも入居者もイベントには非常に前向きな施設となっています。

 このような施設なので、フレイル(日本老年医学会が2014年に提唱した概念で、「Frailty(虚弱)」の日本語訳。健康な状態と要介護状態の中間に位置し、身体的機能や認知機能の低下が見られる状態のこと)にならないための取り組みも行っています。

 そのような取り組みによって分かったことがあるそうです。それは「運動しよう」というと参加者が少なく、「旨いものつくろう」というとみんな集まり、せっせと働くそうです。
 食に対する欲かと思ったところ「リネン交換」も張り切って手伝ってくれるそうです。そして「みんなで歌いながらやると楽しいね」、「少しでも役に立てて楽しいよ」と言うのです。
すなわち、自分が楽しむより、人の役に立てることの方が強い欲求があり、それが満たされる方が楽しく感じるということです。

 その後は、みんなのために働く入居者が増えてきて、スタッフ側はみんなのために働くとポイントがチャージされ、ポイントが貯まると「至福の時間がゲットできる」という制度を提案したそうです。すると、みなさんのやる気スイッチが入り、5月だったので、その日に内に「明日はごみゼロ散歩に行こう」という号令をかける人が現れ、私は「春菊を育てる」、俺は「かぶを植える」というような人も出てきたそうです。

ただし、かぶの種は秋にまくのですが。

第61回 欲求の本質に迫る~「昭和の名曲“天城越え”の制作の狙い」

前回は、昭和の歌を題材としましたが、昭和レトロのブームもあり今回もある昭和の名曲について書いてみます。

昭和の名曲のひとつに石川さゆりさんの「天城越え」があります。1985年にリリースされた演歌に分類される歌です。この歌は作詞を吉岡治氏、作曲を弦哲也氏、編曲を桜庭伸幸氏が手がけました。

実は、この歌の制作に当たって狙いとしたことがユニークなのです。それは、「石川さゆりにしか歌えない、難易度の高い歌を」だったそうです。つまり、素人が歌うのは難しい曲を作ろうということです。

当時はカラオケがブームであり、カラオケで歌ってもらえる歌が売れる歌という方程式のようなものがありました。デュエット曲「3年目の浮気」、あるいは「勝手にしやがれ」などは好んで歌われており、楽曲を制作する側もカラオケで歌ってもらえることで売上を作ろうとしていました。ところが、このような背景がある中で、あえて素人がカラオケで歌えない歌を作ったのです。確かに「3年目の浮気」に比べると圧倒的に難しい歌です。

では、「天城越え」はカラオケで歌われなかったのでしょうか。実は、歌が上手い「歌うま自慢」の人達の闘争心に火がつき、非常に多くの回数歌われたのです。

歌うま自慢の人は、「あこがれの存在になりたい」という欲求の本質を歌で満たそうとするのですから、より難しい歌に挑戦するのは当然なのでしょう。

ちなみに、第一興商の通信カラオケ“DAM”がサービスを開始した1994年4月から2018年までのデータを集計したところ、「天城越え」は最も歌われた楽曲として演歌では首位、全楽曲の中でも4位となっています。

このように、制作側の意図とは全く反対の結果になりました。しかし、曲は大ヒットしました。

新規事業を検討する場合、売上規模や市場規模を先行して考える傾向にあると感じます。もちろん大事ですが、直接的に売上を狙うのではなく「顧客の本能をどう刺激するか」のようなことを検討した方が特徴も明確になり、売上も大きくなるのかもしれません。

「天城越え」という歌は、まだ色々な角度から考察できると思います。皆様も時間のある時に考察してみてはいかがでしょうか。

第60回 欲求の本質に迫る~「昭和歌謡の歌詞のスゴさを改めて感じる」

 昭和レトロがブームになっています。2020年にオープンした「渋谷横丁」をはじめ、ノスタルジーをモチーフにした施設が続々と建てられています。
また、アナログレコードやインスタントカメラといったレトログッズも改めて評価されており、昭和レトロの魅力を紹介するバラエティ番組も放送されています。
なお、1979年に発売された松原みきの名曲「真夜中のドア~STAY WITH ME~」は、昨年末にはSpotify「グローバル バイラルチャート」で15日連続世界1位を記録しており、世界的にも昭和の歌が注目されています。

ということで、今回は昭和の歌について気づいたことを書いてみます。
個人的に昭和の歌でインパクトを感じた曲のひとつに、山本リンダの「狙い撃ち」があります。この歌詞の「神がくれたこの美貌 無駄にしては罪になる 世界一の男だけ この手に触れてもかわない」の部分などは衝撃でした。
もうひとつ、山口百恵の「ひと夏の経験」の歌詞「あなたに 女の子の一番 大切なものをあげるわ」も衝撃的でした。
このような尖った曲は、自分で作り、自分で歌うシンガーソングライターでは絶対に書けないものと思います。たとえ、“自分は美貌の持ち主だ”と思っていたとしても、「神がくれたこの美貌」とは歌えないでしょう。
すなわち、これらの尖った曲は作詞家、作曲家と歌手が各々の能力を発揮すると共に多くの知恵を出し合い、その能力と知恵の組み合わせがあって初めて完成されたものと思われます。
もしかすると、新規事業も1社単独では尖ったテーマの開発は難しいのかもしれません。
2社から3社程度の企業が能力と知恵を真剣に出し合った方が、尖ったテーマが生まれるように思えます。現代のように業際があいまいな時代では、オープン過ぎないイノベーションが有効なのかもしれません。

第59回 欲求の本質に迫る~「自治会の広報誌を担当して大クレームを浴びた」

 私事ですが、昨年度地元の自治会の役員になり広報誌の作成を担当しました。その広報誌の内容にて大クレームを浴びてしまいました。コロナ禍の中、このクレームは心をさらに落ち込ませたのですが、今回は、この大クレームをきっかけに考えたことを書いてみます。

 自治会の広報誌を担当したのですが、少し楽しい誌面にしようと考え「あなたも校閲部員」というクイズを入れました。意図的に漢字を間違え、その漢字を当ててもらう という単純なものです。「回答は来月号に掲載します」と案内したのですが、その案内文の“回答”が間違えで“解答”が正解というような感じです。
すると翌月に会員に方から、笑点で「あなたは18歳、それとも81歳」というテーマの大喜利が面白かったから広報誌に載せてはどうかと提案がありました。そして、以下のような内容を10個程度載せました。

「まだ何も知らないのが18歳、もう何も覚えていないのが81歳」
「髪の乱れが気になるのが18歳、脈の乱れが気になるのが81歳」
「道路を暴走するのが18歳、逆走するのが81歳」

“もしかすると不快に思う人がいるかもしれないな”とも考えたのですが、せっかくのご提案なので載せました。すると、悪い予感が当たってしまい無記名の大クレームの手紙が届きました。

「私には認知症の親がおり、とても笑えるものではない。自治会の広報誌に載せるとは何事か」

のような内容です。面白かったと言ってくれた人もいたのですが、やはり広報誌としては適切ではなかったと反省をした次第です。
ただし、このクレームをきっかけに、盛り上がりに欠く自治会活動というものを少しまじめに考えたくなりました。すなわち、「自治会活動とは何か?」という自問自答です。
「自治会活動とは何か?」のような抽象的な疑問は、直接的に考えることは難しいので一般的なボランティア活動との違いから考えてみました。
自治会活動も無料奉仕という点ではボランティア活動と言えると思いますが、一般的なボランティア活動とはどうも違うように感じます。では、どこが違うのか。一番の違いは感謝とやりがいにあるのではないかと考えます。
一般的なボランティア活動は、支援を受けた側は心から感謝します。そして、ボランティア側は感謝されることで幸せ感を感じます。この幸せ感はオキシトシンというホルモンが分泌されことから生じる感情であり、科学的にも証明されています。
一方、自治会活動は役員をやっても感謝されることはほとんどありません。反対に、クレームや批判は多く受けます(今回のようなクレーム)。当然、オキシトシンは分泌されないので幸せ感も感じません。ここに大きな違いがあるように感じます。
次に、子供会と比較して考えてみました。
子供会は、「子供達に楽しんでもらいたい、いい思い出をつくって欲しいという思いを持って行う活動」と捉えることができます。とても分かりやすく感じます。何故なら、サービスを提供する対象が明確(子供)であり、かつ目的も明確であるためです。

このように考えてみると、自治会活動は、「誰のため」という対象者が曖昧です。また目的も曖昧であることに気づきました。すなわち、盛り上がりに欠く根本の原因には、「サービスを提供する対象者と目的が曖昧である」があるのではないかという仮説が浮かび上がってきたのです。
自治会活動においても、目的の絞り込みからスタートする「目的指向アプローチ」の考え方が必要であると結論づけ、自己満足した次第です。

第58回 欲求の本質に迫る~「お客様に大変無礼な美容院に通う固定客」

 新型コロナウイルスの影響で来店型のサービス業は大きな影響を受けています。プラスの影響を受けた所もあれば、残念ながら逆もあります。その中で、電車を使って来店する顧客が多い美容院は、マイナスの影響を受けた所は多いようです。
しかし、この状況の中でもしっかりと固定客をつかみ、頑張っている美容院があります。ところが、その美容院はお客様にとても無礼なのです。今回は、この無礼な美容院について書いてみます。

まずは、お客様に対する無礼の例を挙げてみます。
この美容院は、基本的に予約制です。顧客側の行動は、早めに行って少し店内で待つということが普通です。ところが、早めに行くと店員から「早っ!」と不満げな顔で言われてしまったのです。そしてこの方は、帰りの電車の中で同じ美容院に通う友達に、「こんなひどい目にあった」とLINEするのです。
なお、このひどい目にあった人はそれ以後、最寄りの駅に早めに行き、お店近くのドトールで時間をつぶして数分前にお店に入るという行動を取るようになりました。そして、「今日は怒られませんでした」と帰りの電車で楽しくLINEするのです。

また、コロナ渦においては次のような例もあります。
会計の際、1万円札を出しました。すると、店長はそのお札を親指と人差し指の先でつまみ、お札に消毒用のアルコールを吹きかけたのです。消毒したお札はレジに入り、お釣りをお客様に手渡したのです。この扱いを受けた人も帰り電車で楽しくLINEするのです。市販のヘアカラーを使ったことがばれて怒られた人も、帰りの電車で楽しくLINEするのです。
このように、ひとつの美容院をめぐって「ひどい扱い受けたLINE」で妙に盛り上がるという不思議な現象が起きているのです。

では、何故こんな扱いを受けながらも定期的に通うのでしょうか。その大きな理由は、店長と店員の持つ「良質な髪をつくり、維持する」ことに対する圧倒的なエネルギーにあります。また、価格も非常に良心的です。すなわち、接客型サービス業なのに職人気質なのです。
このような例を見ると、改めて「商売の正解は、ひとつじゃない」と感じます。お札への消毒スプレーを越える無礼な扱いが出てくることを期待するお客様がいるのです。

第57回 欲求の本質に迫る「マスクの目的が分からなくなってきた」

 新型コロナウイルスの影響でマスクが日常化しています。今回は、このマスクについて振り返りつつ考察してみます。
 新型コロナウイルスの感染拡大が報じられた初期の頃(3月頃)には、「マスクは使い捨てしないとダメ」と言われていました。しかも、マスクの外側はウイルスが付着しているため、手で触った場合は手を消毒した方がいいとも言われていました。
一方では、洗えて繰り返し使えることから「布マスク」が見直される動きが出てきました。そして、布マスクが見直されてからは、様々な特徴を持つマスクが登場してきました。着けると冷やり感のあるマスク、着け心地のいいシルクのマスク、運動中でも呼吸のしやすいマスクなども商品化され多種多様になっています。


スポーツジムも営業を再開しましたが、マスクの着用が義務づけられています。私も運動不足の解消を目的に、不織布マスクを着用してジムで運動をしました。ランニングマシンを使っていた際、当然汗をかいたのですがマスクが汗でびっしょりとなり、口と鼻に貼り付き呼吸ができなくなってしまいました。このままでは死んでしまうと思い、ランニングマシンから降りました。ところが、しばらくすると汗で濡れたマスクが冷えてきて、これがとても気持ち悪くなってきたのです。耐えきれず、運動を止めて家に帰りました。


この経験からスポーツ用のマスクが欲しくなりネットで探した所、顔に貼り付かないワイヤー入りのマスクを発見し入手しました。しかし、そのマスクの説明書には「ウイルスに対する検査は行っていません」と記載されていたのです。
これを読んで浮かんだ疑問は、「マスクって何のために着けるのだ?」です。
周りを見渡すと手作りのマスクをしている人は多く、「ユザワヤで買ったかわいい生地で作ったの」と言って、無料で配っている人もいます。当然、ウイルスや飛沫に対する検査はしていません。


猛暑の夏が訪れると、「熱中症予防のため、人との距離が確保されている所ではマスクを外しましょう」とメディアで言い始めました。すなわち、「着けたり外したりしましょう」と言っている訳です。3月頃は、「一度外したマスクは捨てましょう。そして、マスクを触ったら手を消毒しましょう」という話はどこへ行ってしまったのでしょうか。
先日、暑くても蒸れないマスクはないかと思いつつスポーツジムへ行くと「速乾メッシュマスク」が売られており、購入しました。これは呼吸が楽であり、かざすとマスク越しに景色が見えるくらいのメッシュです。運動には適しています。
夏は麻がいいと思い「麻のマスクはないかな」と話をしたら、何と麻のマスクを作っている人がいました。最近は、麻のマスクと速乾メッシュマスクで過ごしています。


このような現象を振り返ると、本当に人が恐れているのはウイルスではなく、人間であることがよく分かります。

第56回 欲求の本質に迫る 「ナイキの厚底シューズの行方」

今、マラソン等の長距離種目は、ナイキの厚底シューズが問題となっています。このシューズを履いて走ると記録が伸び、たとえば、今年の箱根駅伝では10区間中7区間で区間新記録が出るという驚異的な記録ラッシュとなりました。

しかし、皆様もご存じのように、この厚底シューズは世界陸上連盟が禁止するかどうかの調査に入ったという情報が流れてきています。
ということで、今回は、この厚底シューズの規制の動きについて考察してみたいと思います。


さて、このシューズは禁止されるでしょうか、されないでしょうか。
禁止すべきではないという意見としては、「道具としての技術の進化は他にもある。たとえば、ゴルフのクラブは反発力が大きくなるよう進化している。テニスのラケットのガットも進化している。これらが許されているのだから厚底シューズを規制するのはおかしい」というものです。


一方、規制すべきという意見としては、「水泳の高速水着は禁止になった。厚底シューズが禁止になってもおかしくはない」、などです。
このような話を聞くと、「禁止する、しないの境い目」はどこにあるのかを見極めたいという欲求に駆られます。たとえば、雨の降っている所と降っていない所の境い目を見たい、腹8分目と8.1分目の境い目を感じたいなど、境い目を知りたいというのは多くの人が持つ欲求なのではないでしょうか(それとも、私だけか?)。
ということで、スポーツ用品における禁止すべきか、すべきでないかの境い目について考えてみます。


重い物を持ち上げることを支援する“ロボットスーツ”が、介護等の現場で使われ始めています。もし、このロボットスーツを重量挙げの競技に使ったらどうでしょうか。恐らく、これはアウトです。高速水着は、水の抵抗が小さいだけではなく、樹脂が使われており浮力が働くために禁止になったということです。
これら2つの例は、アウトになっても仕方ないという感覚があります。
一方、反発力を強める野球の圧縮バットや空気抵抗の少ないゴルフボールは、セーフのような感覚があります。


ここから推察される境い目は、「道具と道具との関係や道具と自然との関係における技術の進化ならセーフだが、人の動作を直接的に支援する道具の進化はアウト」ではないかというものです。この境い目の考え方は、それなりに腑に落ちるものと感じます。
では、ナイキの厚底シューズはどうなのか。ナイキのシューズは、カーボンプレートが足裏に反力を与えるため直接動作を支援する道具と考えられます。よって、上記考え方からするとアウトになります。理屈では、このような結論になります。


ところが、靴底のカーポンプレートは既に短距離のシューズに利用されているようです。既に採用実績があるとなると、話は理屈通りにはならなくなります。さらに、道具を提供する側はビジネスで提供しており、規制を緩い方向にもっていきたい欲求があります。話はさらに複雑になります。そして選手の心も複雑になります。


皆さんは、この行方をどのように考えらえるでしょうか。
ところで、新規事業における境い目としては、「事業化するか、しないかの判断の境い目」、「撤退するか、しないかの判断の境い目」などがあります。
話が複雑にならないように、新規事業においても、オリジナルの境い目を事前に設定しておくことが大切と改めて感じます。

第55回 欲求の本質に迫る 「“見る、聴く”から“感じる”時代へ」

明けましておめでとうございます。本年も皆様にとって良い年でありますようお祈り申し上げます。


さて、2020年という新しい年がスタートしました。水晶玉子さんなどの多くの占い師さんが言っているのですが、今年は200年に一度の、大転換の始まりの年になるそうです。
それにしても、「水晶玉子」という名前にはちょっと驚きです。ずいぶん前に結婚式の司会業をしている方から「寿太郎」という名刺をいただいた時も驚きましたが。


この路線で私も、イノベーションに絡めて「伊野部紫音」という名前の名刺に思いきって変えようかと一瞬考えましたが、思いきった割にはインパクトが薄いのでやめることにしました。


話を大転換の始まりの年に戻します。
200年ほど前には、産業革命という大きな転換があり、それをきっかけに世界は飛躍的な進歩を遂げていきました。では、今度の転換はどのようなことでしょうか。それは、モノからコトへの転換が加速していくということです。


これまでは、土地やモノに価値の中心がありましたが、これからは益々コトに価値の中心が移るようです。コトがあってモノがあるということです。
先日、音楽関係の方とお話をしましたが、「ライブはなくならない、むしろ増えていくだろう」と言っていました。ライブは、“見る、聴く”というより“感じる場”なのでしょう。


ポツンと一軒家という番組が人気となっています。山奥のポツンと一軒家で暮らしている人を訪ねていくのですが、一軒家で暮らす方々は皆さん、寂しくもなく幸せそうに暮らしています。一方、都会地で一人暮らしをしている人は、山奥で暮らしている人より寂しそうに思えます。


何故、このような違いを感じるのでしょうか。


その理由は、草木のある自然の中と都会地では、“人が感じるコト”に違いがあるためではないでしょうか。この“感じる”というような見えないコトに注目が集まる時代が始まっていくのではないかと勝手に想像しています。
本年もよろしくお願い申し上げます。

第54回 欲求の本質に迫る 「地元でダントツ人気のDJ社長がいる食品スーパー」

 渋谷のスクランブル交差点は、サッカーのW杯の時などには大変な混雑となり、そのためDJポリスが現れちょっと心を和ませています。DJポリスが現れる度に話題になっていますが、社長がDJの役割をすることで、地元でダントツ人気の食品スーパーがあります。山梨県にあるのですが、今回は、この食品スーパーから欲求の本質に迫ってみたいと思います。


規模の小さな個人経営のスーパーは、一般にチェーン展開する大きなスーパーに品揃えと価格では敵いません。そのため、多くの個人経営スーパーは苦しい経営状況にあります。これからご紹介する食品スーパー(以後、Hスーパー)も8年ほど前には赤字だったそうです。
規模が小さいスーパーは、品揃えや価格以外の特徴を持たなければ、大手に対抗することは難しいのですが、HスーパーDJポリスならぬDJ社長が特徴となっているのです。


では、まずDJ社長が生まれたきっかけについて説明してみます。
元々は、大きなスーパーへの差別化として特徴ある商品を仕入れることにしたのです。しかし、特徴ある商品は珍しいため、その特徴を説明しなければことに気づきます。そのため、仕方なく説明を始めたのです。これがマイクを使ったDJ社長の始まりです。


必要に迫られて始めたマイクDJですが、このアドリブのDJが愛情あふれるものであり、かつ楽しいものでもあったため次第に評判になっていきました。
マイクDJで商品を説明するとその商品が売れる、従業員をイジると顧客もその従業員をイジる、するとそこに対話と情が生まれる、従業員を褒めると意欲が湧き元気になる、その元気を感じて顧客も楽しくなる、このような循環が起きているように思います。
なお、DJ社長が考えるいい店とは「みんなが幸せになる店」だそうです。
お金の循環もできていますが、DJ社長を核に、顧客と従業員と生産者の間に“情”の循環ができているのではないかと感じます。


このように“情”が循環することにより、オキシトシンホルモンが分泌され、おそらく免疫力が高まっていると思います。
人間の本質的欲求は、免疫力を高めたいという本能と密接に関係しているのではないかと感じます。

第53回 欲求の本質に迫る 「無人の中古書店の仕入れがなるほど」

今回は、無人の中古書店について書いてみます。


無人の中古書店を立ち上げる前に、このアイデアを多くの人に相談したようですが、全員に「盗まれるから無人の中古書店など成り立つわけない」と言われたようです。しかし、現実は、そのようなこともなく、商売として成り立っています。
ちょっと田舎に行くと、野菜を売っている小さな無人店舗がありますが、多くの店舗が頻繁に盗難に遭うこともなく販売が継続しているようです。
これらの店舗が成り立っている背景には、“善意”があると言われています。
無人の中古書店については、盗難に遭わないようないくつかの工夫があります。
そのひとつは、店舗の場所です。店舗は、常連客がほとんどの商店街の中にあり、そのため、さりげない監視の目があるようです。また、料金は直接、本に対して払うのではなく、本を入れる袋の代金を自販機で購入します。その袋に本を入れて店舗を出るため、料金を払っていますという無言のメッセージを発信できるようです。
このような工夫により、小さいのの無人店舗は成り立っています。
これらの工夫も興味深いのですが、私が注目したのは「中古本の仕入れ」です。

初期の頃は、オーナー自身が購入し読み終わった本を店舗に並べていました。その後はどうしたかというと、店舗を訪れた人が置いていく本を店内に並べているようです。
すなわち、まったく手間をかけずに無料で仕入れて、それを売っているということです。店内には、本を置く“かご”があるだけです。
さて、ここで興味を持ったことは、「何故、無料で本を置いていく人がいるのか」ということです。


「通常の中古書店で買い取ってもらえるが、そこに行くことも煩わしい」、「捨てるより有効利用になるかも」などの理由が考えられますが、「感動を共有したい」、「感動を味わって欲しい」という理由を持つ人がいるのではないでしょうか。そして、後日、店に訪れた時にその本が売れていたら、小さな感動共有の満足感が得られるのかもしれません。
日常を振り返ると、「この本、面白いから是非読んで」と本を手渡されることがあります。読まないで返すことは申し訳ないと思いつつも、時間が過ぎてしまいます。その内、借りたことを忘れてしまい、気づいた時には2年くらい過ぎており、こうなると相手が忘れていることを願うようになります。


返すに返せない、しかし、捨てることはできない、結果読まない状態が続くことになります。本も読んでくれる人の所へ行く方が、嬉しいかもしれません。