第58回 欲求の本質に迫る~「お客様に大変無礼な美容院に通う固定客」

 新型コロナウイルスの影響で来店型のサービス業は大きな影響を受けています。プラスの影響を受けた所もあれば、残念ながら逆もあります。その中で、電車を使って来店する顧客が多い美容院は、マイナスの影響を受けた所は多いようです。
しかし、この状況の中でもしっかりと固定客をつかみ、頑張っている美容院があります。ところが、その美容院はお客様にとても無礼なのです。今回は、この無礼な美容院について書いてみます。

まずは、お客様に対する無礼の例を挙げてみます。
この美容院は、基本的に予約制です。顧客側の行動は、早めに行って少し店内で待つということが普通です。ところが、早めに行くと店員から「早っ!」と不満げな顔で言われてしまったのです。そしてこの方は、帰りの電車の中で同じ美容院に通う友達に、「こんなひどい目にあった」とLINEするのです。
なお、このひどい目にあった人はそれ以後、最寄りの駅に早めに行き、お店近くのドトールで時間をつぶして数分前にお店に入るという行動を取るようになりました。そして、「今日は怒られませんでした」と帰りの電車で楽しくLINEするのです。

また、コロナ渦においては次のような例もあります。
会計の際、1万円札を出しました。すると、店長はそのお札を親指と人差し指の先でつまみ、お札に消毒用のアルコールを吹きかけたのです。消毒したお札はレジに入り、お釣りをお客様に手渡したのです。この扱いを受けた人も帰り電車で楽しくLINEするのです。市販のヘアカラーを使ったことがばれて怒られた人も、帰りの電車で楽しくLINEするのです。
このように、ひとつの美容院をめぐって「ひどい扱い受けたLINE」で妙に盛り上がるという不思議な現象が起きているのです。

では、何故こんな扱いを受けながらも定期的に通うのでしょうか。その大きな理由は、店長と店員の持つ「良質な髪をつくり、維持する」ことに対する圧倒的なエネルギーにあります。また、価格も非常に良心的です。すなわち、接客型サービス業なのに職人気質なのです。
このような例を見ると、改めて「商売の正解は、ひとつじゃない」と感じます。お札への消毒スプレーを越える無礼な扱いが出てくることを期待するお客様がいるのです。

第57回 欲求の本質に迫る「マスクの目的が分からなくなってきた」

 新型コロナウイルスの影響でマスクが日常化しています。今回は、このマスクについて振り返りつつ考察してみます。
 新型コロナウイルスの感染拡大が報じられた初期の頃(3月頃)には、「マスクは使い捨てしないとダメ」と言われていました。しかも、マスクの外側はウイルスが付着しているため、手で触った場合は手を消毒した方がいいとも言われていました。
一方では、洗えて繰り返し使えることから「布マスク」が見直される動きが出てきました。そして、布マスクが見直されてからは、様々な特徴を持つマスクが登場してきました。着けると冷やり感のあるマスク、着け心地のいいシルクのマスク、運動中でも呼吸のしやすいマスクなども商品化され多種多様になっています。


スポーツジムも営業を再開しましたが、マスクの着用が義務づけられています。私も運動不足の解消を目的に、不織布マスクを着用してジムで運動をしました。ランニングマシンを使っていた際、当然汗をかいたのですがマスクが汗でびっしょりとなり、口と鼻に貼り付き呼吸ができなくなってしまいました。このままでは死んでしまうと思い、ランニングマシンから降りました。ところが、しばらくすると汗で濡れたマスクが冷えてきて、これがとても気持ち悪くなってきたのです。耐えきれず、運動を止めて家に帰りました。


この経験からスポーツ用のマスクが欲しくなりネットで探した所、顔に貼り付かないワイヤー入りのマスクを発見し入手しました。しかし、そのマスクの説明書には「ウイルスに対する検査は行っていません」と記載されていたのです。
これを読んで浮かんだ疑問は、「マスクって何のために着けるのだ?」です。
周りを見渡すと手作りのマスクをしている人は多く、「ユザワヤで買ったかわいい生地で作ったの」と言って、無料で配っている人もいます。当然、ウイルスや飛沫に対する検査はしていません。


猛暑の夏が訪れると、「熱中症予防のため、人との距離が確保されている所ではマスクを外しましょう」とメディアで言い始めました。すなわち、「着けたり外したりしましょう」と言っている訳です。3月頃は、「一度外したマスクは捨てましょう。そして、マスクを触ったら手を消毒しましょう」という話はどこへ行ってしまったのでしょうか。
先日、暑くても蒸れないマスクはないかと思いつつスポーツジムへ行くと「速乾メッシュマスク」が売られており、購入しました。これは呼吸が楽であり、かざすとマスク越しに景色が見えるくらいのメッシュです。運動には適しています。
夏は麻がいいと思い「麻のマスクはないかな」と話をしたら、何と麻のマスクを作っている人がいました。最近は、麻のマスクと速乾メッシュマスクで過ごしています。


このような現象を振り返ると、本当に人が恐れているのはウイルスではなく、人間であることがよく分かります。

第56回 欲求の本質に迫る 「ナイキの厚底シューズの行方」

今、マラソン等の長距離種目は、ナイキの厚底シューズが問題となっています。このシューズを履いて走ると記録が伸び、たとえば、今年の箱根駅伝では10区間中7区間で区間新記録が出るという驚異的な記録ラッシュとなりました。

しかし、皆様もご存じのように、この厚底シューズは世界陸上連盟が禁止するかどうかの調査に入ったという情報が流れてきています。
ということで、今回は、この厚底シューズの規制の動きについて考察してみたいと思います。


さて、このシューズは禁止されるでしょうか、されないでしょうか。
禁止すべきではないという意見としては、「道具としての技術の進化は他にもある。たとえば、ゴルフのクラブは反発力が大きくなるよう進化している。テニスのラケットのガットも進化している。これらが許されているのだから厚底シューズを規制するのはおかしい」というものです。


一方、規制すべきという意見としては、「水泳の高速水着は禁止になった。厚底シューズが禁止になってもおかしくはない」、などです。
このような話を聞くと、「禁止する、しないの境い目」はどこにあるのかを見極めたいという欲求に駆られます。たとえば、雨の降っている所と降っていない所の境い目を見たい、腹8分目と8.1分目の境い目を感じたいなど、境い目を知りたいというのは多くの人が持つ欲求なのではないでしょうか(それとも、私だけか?)。
ということで、スポーツ用品における禁止すべきか、すべきでないかの境い目について考えてみます。


重い物を持ち上げることを支援する“ロボットスーツ”が、介護等の現場で使われ始めています。もし、このロボットスーツを重量挙げの競技に使ったらどうでしょうか。恐らく、これはアウトです。高速水着は、水の抵抗が小さいだけではなく、樹脂が使われており浮力が働くために禁止になったということです。
これら2つの例は、アウトになっても仕方ないという感覚があります。
一方、反発力を強める野球の圧縮バットや空気抵抗の少ないゴルフボールは、セーフのような感覚があります。


ここから推察される境い目は、「道具と道具との関係や道具と自然との関係における技術の進化ならセーフだが、人の動作を直接的に支援する道具の進化はアウト」ではないかというものです。この境い目の考え方は、それなりに腑に落ちるものと感じます。
では、ナイキの厚底シューズはどうなのか。ナイキのシューズは、カーボンプレートが足裏に反力を与えるため直接動作を支援する道具と考えられます。よって、上記考え方からするとアウトになります。理屈では、このような結論になります。


ところが、靴底のカーポンプレートは既に短距離のシューズに利用されているようです。既に採用実績があるとなると、話は理屈通りにはならなくなります。さらに、道具を提供する側はビジネスで提供しており、規制を緩い方向にもっていきたい欲求があります。話はさらに複雑になります。そして選手の心も複雑になります。


皆さんは、この行方をどのように考えらえるでしょうか。
ところで、新規事業における境い目としては、「事業化するか、しないかの判断の境い目」、「撤退するか、しないかの判断の境い目」などがあります。
話が複雑にならないように、新規事業においても、オリジナルの境い目を事前に設定しておくことが大切と改めて感じます。

第55回 欲求の本質に迫る 「“見る、聴く”から“感じる”時代へ」

明けましておめでとうございます。本年も皆様にとって良い年でありますようお祈り申し上げます。


さて、2020年という新しい年がスタートしました。水晶玉子さんなどの多くの占い師さんが言っているのですが、今年は200年に一度の、大転換の始まりの年になるそうです。
それにしても、「水晶玉子」という名前にはちょっと驚きです。ずいぶん前に結婚式の司会業をしている方から「寿太郎」という名刺をいただいた時も驚きましたが。


この路線で私も、イノベーションに絡めて「伊野部紫音」という名前の名刺に思いきって変えようかと一瞬考えましたが、思いきった割にはインパクトが薄いのでやめることにしました。


話を大転換の始まりの年に戻します。
200年ほど前には、産業革命という大きな転換があり、それをきっかけに世界は飛躍的な進歩を遂げていきました。では、今度の転換はどのようなことでしょうか。それは、モノからコトへの転換が加速していくということです。


これまでは、土地やモノに価値の中心がありましたが、これからは益々コトに価値の中心が移るようです。コトがあってモノがあるということです。
先日、音楽関係の方とお話をしましたが、「ライブはなくならない、むしろ増えていくだろう」と言っていました。ライブは、“見る、聴く”というより“感じる場”なのでしょう。


ポツンと一軒家という番組が人気となっています。山奥のポツンと一軒家で暮らしている人を訪ねていくのですが、一軒家で暮らす方々は皆さん、寂しくもなく幸せそうに暮らしています。一方、都会地で一人暮らしをしている人は、山奥で暮らしている人より寂しそうに思えます。


何故、このような違いを感じるのでしょうか。


その理由は、草木のある自然の中と都会地では、“人が感じるコト”に違いがあるためではないでしょうか。この“感じる”というような見えないコトに注目が集まる時代が始まっていくのではないかと勝手に想像しています。
本年もよろしくお願い申し上げます。

第54回 欲求の本質に迫る 「地元でダントツ人気のDJ社長がいる食品スーパー」

 渋谷のスクランブル交差点は、サッカーのW杯の時などには大変な混雑となり、そのためDJポリスが現れちょっと心を和ませています。DJポリスが現れる度に話題になっていますが、社長がDJの役割をすることで、地元でダントツ人気の食品スーパーがあります。山梨県にあるのですが、今回は、この食品スーパーから欲求の本質に迫ってみたいと思います。


規模の小さな個人経営のスーパーは、一般にチェーン展開する大きなスーパーに品揃えと価格では敵いません。そのため、多くの個人経営スーパーは苦しい経営状況にあります。これからご紹介する食品スーパー(以後、Hスーパー)も8年ほど前には赤字だったそうです。
規模が小さいスーパーは、品揃えや価格以外の特徴を持たなければ、大手に対抗することは難しいのですが、HスーパーDJポリスならぬDJ社長が特徴となっているのです。


では、まずDJ社長が生まれたきっかけについて説明してみます。
元々は、大きなスーパーへの差別化として特徴ある商品を仕入れることにしたのです。しかし、特徴ある商品は珍しいため、その特徴を説明しなければことに気づきます。そのため、仕方なく説明を始めたのです。これがマイクを使ったDJ社長の始まりです。


必要に迫られて始めたマイクDJですが、このアドリブのDJが愛情あふれるものであり、かつ楽しいものでもあったため次第に評判になっていきました。
マイクDJで商品を説明するとその商品が売れる、従業員をイジると顧客もその従業員をイジる、するとそこに対話と情が生まれる、従業員を褒めると意欲が湧き元気になる、その元気を感じて顧客も楽しくなる、このような循環が起きているように思います。
なお、DJ社長が考えるいい店とは「みんなが幸せになる店」だそうです。
お金の循環もできていますが、DJ社長を核に、顧客と従業員と生産者の間に“情”の循環ができているのではないかと感じます。


このように“情”が循環することにより、オキシトシンホルモンが分泌され、おそらく免疫力が高まっていると思います。
人間の本質的欲求は、免疫力を高めたいという本能と密接に関係しているのではないかと感じます。

第53回 欲求の本質に迫る 「無人の中古書店の仕入れがなるほど」

今回は、無人の中古書店について書いてみます。


無人の中古書店を立ち上げる前に、このアイデアを多くの人に相談したようですが、全員に「盗まれるから無人の中古書店など成り立つわけない」と言われたようです。しかし、現実は、そのようなこともなく、商売として成り立っています。
ちょっと田舎に行くと、野菜を売っている小さな無人店舗がありますが、多くの店舗が頻繁に盗難に遭うこともなく販売が継続しているようです。
これらの店舗が成り立っている背景には、“善意”があると言われています。
無人の中古書店については、盗難に遭わないようないくつかの工夫があります。
そのひとつは、店舗の場所です。店舗は、常連客がほとんどの商店街の中にあり、そのため、さりげない監視の目があるようです。また、料金は直接、本に対して払うのではなく、本を入れる袋の代金を自販機で購入します。その袋に本を入れて店舗を出るため、料金を払っていますという無言のメッセージを発信できるようです。
このような工夫により、小さいのの無人店舗は成り立っています。
これらの工夫も興味深いのですが、私が注目したのは「中古本の仕入れ」です。

初期の頃は、オーナー自身が購入し読み終わった本を店舗に並べていました。その後はどうしたかというと、店舗を訪れた人が置いていく本を店内に並べているようです。
すなわち、まったく手間をかけずに無料で仕入れて、それを売っているということです。店内には、本を置く“かご”があるだけです。
さて、ここで興味を持ったことは、「何故、無料で本を置いていく人がいるのか」ということです。


「通常の中古書店で買い取ってもらえるが、そこに行くことも煩わしい」、「捨てるより有効利用になるかも」などの理由が考えられますが、「感動を共有したい」、「感動を味わって欲しい」という理由を持つ人がいるのではないでしょうか。そして、後日、店に訪れた時にその本が売れていたら、小さな感動共有の満足感が得られるのかもしれません。
日常を振り返ると、「この本、面白いから是非読んで」と本を手渡されることがあります。読まないで返すことは申し訳ないと思いつつも、時間が過ぎてしまいます。その内、借りたことを忘れてしまい、気づいた時には2年くらい過ぎており、こうなると相手が忘れていることを願うようになります。


返すに返せない、しかし、捨てることはできない、結果読まない状態が続くことになります。本も読んでくれる人の所へ行く方が、嬉しいかもしれません。