第11回(2007.07.08) 「セカンドライフ」の楽しさとは

 ネットの世界の仮想都市空間に入り、仮想の生活を送るという米国発の「セカンドライフ」というサービスが流行り始めています。先日、SBI(ソフトバンクインベストメント)も、この分野の事業に参入するという発表がされていました。

 今回は、この仮想都市空間について考察してみたいと思います。

 仮想都市空間では、アバター(自分の分身)を登場させ、そのアバターが生活できるように、仮想都市空間内に、土地を買い、住宅を建て、服などを買います。そして、自分のネット上の家にネット友達を招きい入れ、会話をしたりして遊んでいきます。

 私も子供の頃、人生ゲームというボードゲームでよく遊びました。祈りながらルーレットを回したこと、ゲームの最後には、産んだ子供をお金で精算することに違和感を覚えたことなどを思い出します。

 人生ゲームも、自分の人生を仮想の世界で展開していくという点では、仮想都市空間と似たところがあります。しかし、どこか違っています。では、違っている点はどこでしょうか。

 人生ゲームは、ご存知の通り、1から10まで(だったと記憶していますが)の数字が書いてあるルーレットを回し、その出た数によって人生が決まっていくものです。すなわち、自分の意思に関係なく人生が決まっていきます。

 一方、仮想都市空間は、年齢、性別、職業などのアバターのプロフィールを自分で決めていき、仮想の世界で友人関係をつくり、気に入ったものをネット上で購入していくものです。

 すなわち、人生ゲームは、意思とは関係なく自分の人生が決まってしまうのに対し、仮想都市空間は、自分が主体的に人生を決めていくということが大きな違いと思われます。

 また、もうひとつの違いは、人生ゲームは、順位を決める競争ゲームであるのに対し、仮想都市空間は、競争ゲームではないということです。

では、競争ゲームではない仮想都市空間は、何が楽しいのでしょうか。

それは、イマジネーションではないかと考えます。

 人は、理想とする地位、好きな人物(ヒーローなど)、あるいは興味のあるプロフィールになって、その立場から人生を試してみたいという欲求を持っているのではないかと推察します。

 しかし、何故、そのような欲求を持つのでしょうか。それは、なりたい人物になった時のことを想像して、楽しんでいるからではないでしょうか。すなわち、イマジネーションを楽しんでいるのです。

 仮想都市空間は、想像欲を刺激するサービスに、なっているのではないでしょうか。

第10回(2007.07.03) 「大学の行方をイマジネートする」

 教育再生会議、ゆとり教育の見直し、国立大学の独立法人化など、何かと話題の多い教育問題ですが、今回は、この教育産業ついて考えてみたいと思います。

教育産業は、少子化というトレンドの下、大きく変化してきています。大学や高校では、学生数を確保するため、一般受験からの入学者数を減らし、AO入試や推薦入学など、一般受験をしないで入れる枠を広げています。この変化に連れ、予備校も一般受験のカリキュラムに加え、推薦入学用のカリキュラムを増やしてきています。

 また、以前であれば、浪人生というと大学受験に成功しなかった子供が仕方なくなる身分であり、どちらかと言えば、肩身の狭い存在であったと思います。ところが、最近では、安易に大学を選ばず、目標をしっかり持った意思の強い子供であるという評価になっています。

このように、教育機関の戦術や学生に対する評価が少しずつ変化してきています。

さて、では、このような背景の下、今後の大学の行方をイマジネートしてみたいと思います。

子供の数が減少する中、また学費が高止まりする中、大学運営においては、生徒数の定員を確保する、あるいは増やすということが直接的な課題となります。

では、生徒数を確保、あるいは増やすにはどのような方法があるでしょうか。一般的には、次のようなことが行なわれています。

・受験に工夫する(推薦入学者数を増やす、私立でもセンター試験入学を行なう、2度受けられるチャンスを与える、など)
・スポーツ等で知名度を高める
・就職率、有名企業の就職先の枠を増やすなど、就職に関する工夫
・学校を都心に移す

 生徒にとっては、いずれも大変有り難い施策です。しかし、これらは、いずれも入学者数に焦点を当てたものです。実は、生徒数を増やすには、もうひとつ方向があります。それは、入学した生徒を簡単に卒業させないという方向です。

 日本の大学は、「入る時が難しいが、出るのは易しい」と言われてきましたが、最近では、入る時も、出るのも易しくなりつつあります。簡単に卒業させないということは、在学中での試験を厳しくし、しっかり勉強しないと単位が取れないという方向に変えていくことになります。このようにすれば、恐らく留年する生徒が増え、生徒数は増えることになるでしょう。

 一方、新卒を採用する企業側から見ると、しっかり勉強した卒業生が増えるため、好ましい方向となります。そして、当然、生徒の親にとっても、企業側にとって魅力ある人材に育つことは好ましいことになります。

 実は、このような状態になることは、社会的にも好ましい方向となります。大学の行方は、生徒数を増やしたいという欲求の下、このような方向に変化してくることも想像できます。

 よく考えると、大学の本来の目的(私共の言い方では“上位の目的”)は、しっかりした教養と専門知識を身につけた学生を世に送り出すことにあります。簡単に卒業させないという方向は、本来の目的にも沿っているものであり、好ましい変化方向と言うことができます。 もしかすると、数年後には、留年している生徒の評価も変わっているかもしれません。

第9回(2007.02.28) 「罰(バチ)があたる」

 開運関連の商品やサービスが売れています。昔からあるお守りや破魔矢などは当然のこと、開運ペンダント、ツキを呼ぶ絵画、パワーストーン、風水、そして、運気を上げるために改名する人、さらには、出版物も、ありがとうの効用など、運気を呼び込む行ないを書いた書物も大変人気となっています。

 このような開運関連の商品・サービス・コンテンツが、売れるのは何故でしょうか。それは、当然ながら、自分が望むような人生がおくれるようになりたい、平たく言えば、「幸せになりたい」という欲求があるためと思われます。しかし、このような欲求の裏には、もうひとつの欲求が加わっているように思われます。それは、「楽して」ということです。すなわち、「楽して幸せになりたい」という欲求です。この欲求は、特に現代は特に強くなっているように感じられます。

 このことを証明するかのように、「罰(バチ)があたる」という言葉が使われなくなったように思われます。マナーを守らない、自分勝手な振る舞い、目上の人を大切にしない、あるいは、言いつけを守らないなど、道徳に反するような行ないをした場合に、必ず「そんなことをすると、いつか罰(バチ)があたるぞ」と言われたものです。ところが、最近、この言葉はほとんど死後になっています。

 「自分は、身勝手に振舞いたい、それでいて楽して幸せになりたい」ということが現代人の相当数の人が持つ心理なのでしょうか。

 欲求に応えることで、商売をしようとすることがマーケティングの基本だとすると、このような“身勝手な欲求”に応えていくことが正しいということになります。しかし、一方では、「カルマの法則(苦しみを与えれば苦しみが、喜びを与えれば喜びが返る)」などを説いている人達がおり、これもまた、商売になっています。

 便利な生活をしたいという欲求を追求する過程で、環境問題が発生し、今度は、環境改善が商売になる。身勝手な振る舞いをする人が、環境貢献に対して熱心に活動する。人の欲求は、多面的ということなのでしょうか。

第8回(2006.05.14) 「タバコを吸う人のための健康茶」

 タバコを吸う人のための健康茶が昨年発売されました。これは、タバコを吸う人の旨味茶というキャッチフレーズのもので、愛煙家の人が一息つく時に飲んでもらおうとするものです。

なお、細かい仕様は省きますが、340mlのペットボトルに入り、また、体内のニコチンを無害化して排出を促す機能を持つ成分も含んでいます。

さて、私はタバコを吸わないのですが、このお茶をたくさん飲みました。何故なら、近所に飲料関係の卸問屋に勤めている方がいるのですが、その方から賞味期限が迫ったものを大量にいただいたためです。すなわち、売れ残ったものをいただいたということです。

ところが、飲んでみるとかなり美味しく、私だけでなく家族も美味しいと言って毎日飲んでいました。 それにしても、この美味しいお茶は何故売れなかったのでしょうか。

正解は定かではありませんが、今回は、このことについて考えてみたいと思います。

タバコを吸う人のためのお茶ということで、タバコを吸う人の立場に立って考えてみたくなりますが、あえて、タバコを吸わない人の立場から考えてみたいと思います。

第一印象として、タバコを吸わない人はどのように感じるでしょうか。

タバコを吸う人のためのお茶なため、直感的に「自分の飲み物ではない」と、先ずは感じると思われます。と同時に、「あまり美味しくなさそう」と感じるのではないでしょうか。

実は、私も最初に口にする時は、ちょっと不安でした。そして、家族も皆、最初は不安げに口にしました。ところが、飲んでみると意外に美味しかったという状況です。

上記事柄が、タバコを吸わない人の一般的な印象であると仮定してみます。では、次に、タバコを吸う人の立場に立って考えてみます。

タバコを吸う人のためのお茶ですから、先ずは自分も対象となるのだなと感じると思われます。これは、タバコを吸わない人と違う所です。

では、“美味しさ”についての直感的な印象はどうでしょうか。タバコを吸う人ならば、直感的に「美味しいと感じる」、とは考えにくいと思われます。やはり吸わない人と同様、「あまり美味しくなさそう」と感じるのではないでしょうか。すなわち、美味しさについての印象は、タバコを吸う人も吸わない人も変わらないということです。

体内のニコチンを無害化して排出するという機能も魅力的ではありますが、手軽に飲めるお茶に対して本質的に求めるものは何でしょうか。それは、タバコを吸う人も吸わない人も同じかもしれません。

たまには、ターゲットでない人の立場に立って考えてみることも有効かもしれません。

第6回(2005.09.20) 「好みの心理の背景」

先日、来日して話題になったこともあり、今回もヨン様をテーマにしたお話をしたいと思います。
8月31日に、埼玉アリーナにて、ヨン様の来日イベントがあったことは衆知の通りですが、相変わらず大変な人気でした。それにしても、何故、ヨン様には、あれほど熱狂的なファンが多いのでしょうか。このあたりを今日は考えてみたいと思います。
ヨン様が日本の女性、特に40歳以上の方に熱烈なファンが多いことは、様々な調査結果を見てもほぼ間違いないと思われます。さて、このような女性達の気を奪ってしまう理由ですが、当然いくつかあると思いますが、私が注目しているのは、ヨン様は「お行儀がいい」ということです。この理由は、何人かのヨン様ファンの方に聞いてみたのですが、「そうかもしれない!」と、みんな言っていましたので、決してはずれてはいないと思います。
一般に、韓国の俳優は、米国の俳優に比べお行儀がいいと感じます。しかし、これは躾の善し悪しの問題ではなく文化の問題です。従って、「お行儀のいい人が好き」という好みの心理の背景には、この文化の共通性があるのではないかと私は解釈しています。
さて、話を新規事業に移してみます。
新規事業を実施に移していく過程においては、トップの承認を得るということが必要になります。いわゆる、意思決定というプロセスであり、大変重要なイベントとなります。この意思決定の場面においては、客観的な判断がなされることが本来理想的な訳ですが、現実には好みの心理が入り込むことが、意外に多いと思われます。そして、この好みの心理は、企業の文化にその根元があるように感じています。すなわち、ヨン様を好む心理の背景と共通するものがあると思われます。
新規事業の仕事を行う際には、このような組織の持つ好みの心理も考慮に入れることが大切なようです。

第5回(2005.07.27)「“ベタ”なドラマ」

今回も引き続き、韓流に関連したお話をしてみたいと思います。

 先日、車を運転しながら何気なくラジオを聞いていると、ドラマの制作サイドの人が面白いことを言っていました(名前は聞き逃してしまい、読者の方にも、ご本人にも申し訳なく思います)。

 その人によると、ここしばらく、所謂「“ベタ”なドラマ」というものは、日本ではほとんどまったく制作されていなかったそうです。何故ならば、視聴者の間から「あのドラマ“ベタ”よね」という言葉が発せられるようになり、制作サイドは、その言葉を「あまり好きではない」「ドラマとしては、あまり面白くない」という批判的な言葉として捉え、「“ベタ”なドラマは受けない」と思ってしまったためということです。

 ところが、冬ソナを初めとして韓流ドラマには、「“ベタ”なドラマ」が多く、中には、“ベタ”を3つくらい並べてもいいほどの「“ベタ”なドラマ」もあります。その“ベタ”な韓流ドラマが大変受け、そして、その現象を見て、日本の制作サイドは自分達が思い違いをしていたことに気づいたというのです。それは、「“ベタ”なドラマ」はニーズがないどころか、むしろ好まれるということであり、「“ベタ”なドラマ」を、好む人は多いということです。

 仲間由紀恵主演の「ごくせん」というドラマも、かなり「“ベタ”なドラマ」ですが大変人気が高く、「ごくせん3」も検討されていると聞いています。

思えば、吉本興業の芸人のギャグも、強烈にベタなものが多く、そのベタなギャグが出てくることを期待して見ています。そして、期待通り、ベタなギャグが出てくると、大変なスッキリ感を感じ、そして楽しく感じます。
ベタなドラマやギャグは、脳を刺激される意外性はなくても、常に安心して見ていられるという心の安定がもたらされるように感じます。しかし、「ベタなおやじギャグ」と言われた場合は、どのように解釈したらよいのでしょうか・・・

第4回(2005.04.27) 「冬ソナの人気の原点 その2」

 韓流ブームは、竹島問題などを抱えながらも衰えを見せていません。こうなると、ブームという一過性のものではなく、日本の生活の中に定着してきた感じすら受けます。

 さて、前回は、この韓流ブームの火付け役となった「冬のソナタ」のヒット要因を、見る側の欲求面から考察しました。今回も、基本的には同様の角度より考察を行ってみたいと思います。

 冬のソナタというドラマの監督は、ユン・ソクホという方です。この監督の元へは、多くの日本女性からファンレター(ドラマに対するファンレター)が届いたようです。
 ところが、これらのファンレターをくれる人達には、ある程度の傾向があるとユン・ソクホ監督は言っています。それは、学生時代に学級委員をしていたような人が多く、ドラマに対する深い考察と自分の受けた感動を的確に文章として表現している人が多いそうです。確かに、私の周りにいるファンの人達を見ても、そのような人が多く、反対にヤンキー系のお姉ちゃんでヨン様のファンをあまり見たことはありません。

 冬のソナタは、もちろん恋愛ドラマの範疇に入るものですが、このドラマのひとつの特徴は、まるで抒情詩のようであり、ほとんどポエムの世界のように感じられる所にあると思います。そして、そのポエムの世界では、女性に対する豊かな愛情が表現されており、また、優しい言葉が大変多く使われています。私は、この「優しい言葉」というものに着目しています。

 日本の男子は、なかなか面と向かって「愛してる」とは言えず、特に年齢が高くなるほど、この傾向は強いようです。

しかし、女性はいくつになっても優しい言葉をかけてもらいたいという欲求は強いようです。決して中高年以上の男子は優しくないことはなく、奥さん方も優しさを感じているものと思われます。

ところが、その優しさを言葉として表現しているかというと、照れくささが先行してしまうのか、できているとは言い難い状況と思われます。女性はどうも、優しい言葉(わざとらしくない範囲で)が好きなようです。

優しい言葉に飢えているとまでは言わないものの、優しい言葉を面と向かって言って欲しいていう欲求は、本質的に持っているように感じます。

第3回(2005.01.11) 「冬ソナの人気の原点 その1」

 韓国のドラマが、大変な人気となっています。書店の雑誌売り場には、韓国ドラマの専門コーナーができており、また、レンタルビデオ店でも韓国コーナーがあります。しかも、TSUTAYAでは、通常、新作以外は7泊8日の貸出しですが、韓国ドラマに限っては、3泊4日の貸出し期間となっています。それだけ、回転が早いということでしょう。

 韓国ドラマの人気のきっかけになったのは、昨年末にもノーカット版が放映された「冬のソナタ」と思われます。「冬ソナツアー」が登場する、あるいは、韓国で撮影されたドラマにも関わらず、岐阜県各務原市に「冬ソナストリート」ができるなど、訳の分からない現象が起きるほどの熱が今でも続いています(どうも、ドラマの名場面を再現した並木道をつくったようです。ここにも、多くのファンが行き、ヨン様をネタにおしゃべりをし、笑い、そして、楽しむのでしょう)。

 ところで、冬ソナの顧客層の中心は、50歳以上の女性だそうです。この層の人達の心を、何故これほどまでに惹きつけたのでしょうか。私も、このドラマを見たので私なりの考察をしてみたいと思います。

 まず、このドラマのテーマは初恋です。そして、「初恋を届けにきました」が、このドラマのコンセプトとなっています。初恋は、定番とも言えるニーズですから、テーマそのものが人気の要因のひとつであることは間違いことと思います。

 しかし、それだけでは、どうもないようです。私が見て感じたのは、ドラマの時代背景が、30年、40年前の日本に近い感覚をおぼえるということです。すなわち、そこには、現代風の初恋があるのではなく、自分が過ごした青春時代の初恋があるのです。東京ラブストーリーでは感じられなかった青春時代の初恋があるようです。そして、このドラマを見て「リアルなノスタルジーに浸る」という作業が心の中で行われているように感じます。

 写真の整理をしていると、整理することより、ついつい写真から連想する過去の思い出に浸ってしまい、ほとんど整理が進まなかったということは多くの人が経験していると思います。

 “ノスタルジーに浸りたい”というのは、どうも人間の持つ本質的欲求のひとつのようです。

 なお、冬ソナ人気の要因は、これだけではないようです。更なる考察は、次回に回したいと思います。

第2回(2004.08.24) 「トリビアの泉の不思議 その2」

 前回に引き続き、トリビアの泉の不思議について考えてみたいと思います。

 前回の最後に書いたように、一般に情報番組と言えば、いかに生活に役に立つ情報を面白く提供するかということがポイントになるのですが、「トリビアの泉」は、ムダな情報を提供するというコンセプトを打ち出し、それが見事にあたっています。

 しかし、何故ムダな情報や知識を提供するという情報番組が、高い視聴率を取ることができるのでしょうか。このことについて、考えてみたいと思います。

 まず、ムダな情報や知識というのは、本当に何の役にも立たないのでしょうか。

 たとえば、トリビアの泉で扱われた問題は、翌日には、番組を見なかった人に対して会話の中で一種のクイズとして登場することが多いと思われます。これは、コミュニケーションのための軽い“ネタ”として活用されていると解釈できます。生活に役立つ情報というのも、会話の中に登場してくることも当然ありますが、ムダな知識でも脳を刺激するような意外性のある話題であれば、会話を円滑化させるという大変重要な役割があるものと思われます。むしろ軽いネタの方が、会話を円滑化させるには効果的かもしれません。すなわち、ムダな情報や知識も決して無駄にはなっていないということです。

 ただし、ここでちょっと気になることは、果たしてこれらのムダな情報が有料であったらどういう状態になるかということです。恐らく、生活に役立つ情報というのは、強くニーズを持っている人がおり、この人達にとってはお金を出してでも入手したいと思うのではないかと想像します。しかし、ムダな情報や知識が有料であった場合には、そこにお金を払う人達はあまりいないのではないかと思われます。

 事業を考える場合には、お金を払う人達がどの程度いるかということがもっとも基本的な要素になります。今回のトリビアの泉は無料のために、これだけ多くの視聴者を獲得できているものと思われます。

そして、多くの視聴者がいることに広告スポンサーは価値を見出すものであり、ムダな情報は間接的にも大きな役に立っている訳です。

第1回(2004.07.02) 「トリビアの泉の不思議 その1」

 同じ人間でありながら、人は他人の欲求をつかみきれないものです。しかし、新商品や新規事業開発を行っていく以上、欲求の本質を考察する場面は必ず出てきます。すなわち、欲求の本質に迫ることは、避けては通れない道と言えます。

 今回より、新シリーズとして「欲求の本質に迫る」と題して、人間の欲求の本質に近づくお話をしていきたいと思います。

 第1回は、「トリビアの泉の不思議その1」です。

 フジテレビのバラエティ番組である「トリビアの泉」が大変人気を博しています。この番組は、日常生活にはほとんど役に立たない“ムダ”な情報を提供し、その情報に対して、出演者が意外さや驚きの度合い(へぇ~と思う度合い)の点数をつけるという番組です。

 この番組で取り上げられる情報は、たとえば次のようなものです。

「嫌な奴と嫌な奴がいると、皆殺しになる」とは、どういうことでしょう。

正解は、「いやなやつ(18782)+いやなやつ(18782)=みなごろし(37564)です。」

というようなものです。

 この正解を聞いた出演者は、「あ~、なるほど」と一種の感心をし、驚きの度合いに応じた回数の“へぇ~ボタン”を押すという具合です。

 あるいは、ブルース・リーが主演し大ヒットした「燃えよドラゴン」という映画がありますが、この映画の中でバックに使われている音楽は、大変闘争心がかき立てられるリズムに、「アチョ~」という叫び声が乗ったものです。決して歌とは言えない音楽です。

 ところが、カラオケの曲にこれと似たような、歌詞のない叫び声だけで歌う?曲があるといういうのです。そして、実際にその曲を聞いた出演者は、勢いよく“へぇ~ボタン”を押すという具合です。

 一般に、情報番組と言えば、いかに生活に役に立つ情報を提供するかが大切と思われ、各局共、役に立つ情報を懸命に集めています。ところが、現実には役に立たない情報を提供している番組の方が人気があるのです。

 さて、この事実は、どのように分析できるでしょうか。事実を通じて、欲求の本質に近づいていきたいと思います。

 この続きは次回に。